前科2犯を背負い投げ

前科者になってしまった私の人生を綴っています。

生きる希望はどこから?

  本日3月11日は東日本大震災発生から8年目の日

 

 震災で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 

 少し東北に住んでいたときの話しをします。

 

 私は、震災後の爪痕を残した被災地に復興事業で東北に住んでいた時期がありました。

 

 宮城県の被災地

 

 石巻

 

 塩釜

 

 亘理

 

 石巻

 

 気仙沼

 

 三陸

 

 数多くの被災地の復興事業に携わりましたが、得に印象深かったのは

 

 女川町です

 

 当時、仙台市内から女川町に行くには、車で1時間三陸道を走り、石巻で降りて山を1つ越えなければいけませんでした。

 

山道を30分程、走り抜けると視界がひらけて山に囲まれた港町があったらしき場所が見えます。

( 復興途中だったので工事現場しかありませんでした)

 

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※イメージです

 

山道を下る途中に電信柱にメモリのようなものが付いていました。

 

よく目を凝らして見ると、過去の最高の浸水はココと表記されています

 

実際にその場所からメモリまでは2メートル程でしたが、まだ山を下る途中ですので

高台のような場所です。

 

その位置から換算すれば、見えている港町丸々が津波に呑み込まれたことになり

心の底からゾッと肝を冷やしました。

 

 更に町を走ると

 

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 交番が横倒しになっていたり

 

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鉄骨が剥き出しになった建物がそのままにされていて、津波の悲惨さがわかりました。

 

あとで調べてわかったことですが、女川町は津波の被害が、もっとも大きかったところで、津波も20m〜30mくらいの高さにまでなっていたそうです。

 

死亡率も避難した人となくなった方の比率が55%と非常に高かったそうです。

 

津波の破壊力は戦争での爆弾なんか話しにならないほどの破壊力です。

正直、津波の威力がここまで圧倒的とは、想像を遥かに超えていました。

 

私の目から見るならば「全滅」という状況に見えました。

もともとはにぎやかな町があったのですが、それも想像できない状態でした。

 

 このような最悪な状態から・・・

 

 ただ、救いだったことは、町と人々は津波で流されてしまいましたが、残された人達の生きる希望は流されなかったことだと思いました。

 

 女川町の人達と接する機会がありましたが、皆前向きに生きていこうとする人達で、震災にあった彼らを、私が勇気づけてあげなければいけないハズなのに、逆に勇気づけられることになりました。

 

 

 

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 これは、女川町のキャッチフレーズです。

 

 「 女川は流されたのではない、新しい女川に生まれ変わるんだ。」

 

 この力強いキャッチフレーズ

 

 自分も見習わなければいけません。

 

 生きる希望は逆境から生まれるものなのかも知れませんね!

 

 新しい自分に生まれ変わる時はもうすぐです!